目次
文章の規模が大きくなりすぎたので、多少でも読みやすいように目次とその説明を書いておきます。もしタイトルに興味があるのであれば、このまま読み進めていってください。
注意!ページ内リンク
- はじめに
- 簡単な文章の内容の説明と定義を2つ
- 1章:歴史を振り返る
- 過去を考え、流行を考える
- 最初のフリーゲーム思想
- 98年以前について
- フリーゲームの成長期
- ブーム中について
- 2章:衰退を引き起こしたと思われる事象
- 衰退を引き起した6つとは
- PCの性能向上による弊害
- 性能向上は良い事ばかりではないこと
- 優れた製作者による弊害
- 個と全体では『良い』が異なること
- 情報交換に2chが使用されるようになった弊害
- 垣根を越えて一つの場で語る問題
- 過去に注目されたサイトの閉鎖、管理放棄による弊害
- wwwにおいては立つ鳥は常に後を濁すということ
- 厨二病という言葉の発生による弊害
- 無意識に他人を傷つける言葉
- 時代の経過による変化は何をもたらしたか
- 以上を踏まえ、さらに時間軸を取り入れる
- 3章:本当に衰退はおきたのか
- 衰退の原因の分類ごとの考察
- 単純な時間経過でおきて然るべき事
- 作品は消えずにスタックされる事実から分かること
- 予想外だった自然災害的な事
- Webのインフレがもたらす変化
- 個々の努力で改善を図れる事
- 作品ではなく環境を
- 衰退せずに変質した現在
- 衰退はせずとも昔から代わった、それは何か
- 最終章:変わる世相と変わらない本質
- 見失う製作者、今求められるものとは
はじめに
先日、中学時代に遊んだフリーゲームを掘り出し、懐かしんでいましたが、確かに今の時代フリーゲーム界には勢いが無いようです。まさにwikipadiaのフリーゲームの項目について書いてある通りに、衰退しているように思えるのです。この衰退というのはコミュニティの関係によって生まれたと思われるゲームが減ったことと、カリスマとなり後続の製作者を生み出す作品も減ったこと、この2つです。
それでは何故フリーゲームは衰退したのか、また、これからの時代を良くする為にフリーゲーム界から求められている起爆剤となる作品とは、はたしてどのようなものか、それについて久しぶりに真面目に考察していきたいと思いますが、長くなるので今回は導入部、何故衰退したのか、のみ考察します。そして今回は定量的に扱うことは難しく、あくまでも僕の定性的な見方です。
1章:歴史を振り返る
最初に衰退する以前のステップ、何故流行となりえたか、これについて考えてみよう。ただし僕はその時代にwebを観察していたわけではないので、あくまでも推測の域からは出ない。代わりにこの栄えていた定義を間違えることなく示せれば、反対にこれからどのように持ち返すか、これのヒントとなりえるだろう。したがって、これから考えることは重要である。
最初のフリーゲーム思想
フリーゲームは遡って『pong』に起源があると考える(修正『Tennis For Two』。コンピューターゲームとして最初に現れ、後に家庭用ゲーム機やゲームセンターでの筐体となって活躍し、同じくPCゲームの起源でもある。『pong』は、その開発思想が知られている限り、技術的な好奇心が強かったように書かれている記事が多いからである。また、これ楽しいんじゃないか、そう考えるのは遊びを作っていくための本質でもあるし、十分に起源であるといえるだろう。
初期の一般PCゲームは、同人ゲームが一番国産で栄えたのではないかと思える。しかしこの頃のPC-98は万人が買うものでもなかったし、一部の人たちの表現の手段としてとどまっていた。それから暫く経ち、win95搭載のマシンが出回る。以前にもまして多くの人たちがPCを触る機会が増したのは、家族の所持する書類作成用なりが普及し始めてきてからだろう。だから僕の考えでは、丁度98年辺りからフリーゲームが増えてきことになる。これは子供達が、調べて習得したプログラミングスキルを用いて、ゲームを作ったらすごいよね、という同人ゲームの流れが大衆にも入ってきたからではないだろうか。省略したが、ツクールも既に登場している。
フリーゲームの成長期
さて次の段階では、ゲームを作る人たちを見て、僕も作りたい、と考える人も出てくる。ただVBやCからゲームを作るには敷居が高すぎるし、高額なソフトウェアを買わなければならない。実行に移せた人は少ないだろう。かわりに、コミックメーカーやNScript、吉里吉里が誰でも扱えるソフトウェアとして登場する。必要なユーティリティや、メモ帳などがあれば、動的なゲームに区分される読み物が誰でも手軽に作れる。また、その後数年の中核となるソフトウェアは続々と増えてくる。ツクール系やCardWirthがそれにあたるだろう。
しかし今提示したものは、どれも全てがゲームを作るためのソフトウェアであって、ゲームではない。すなわち僕が考えるに、フリーゲームの規模を大きく膨らませたのは、個人の優秀なソフトなどではなく、万人がゲーム製作に当たれる工夫であったのである。
これは丁度その時期や栄えていた期間に生み出されて有名になったゲームを考えればいいだろう。『ハーバーランドでつかまえて』、は技術的に特筆すべき点を持たない。絵もチープで音も後に聞き飽きるくらいに使われるMIDI音源である。しかし、実際にやったことがあるものは分かるだろうが、あれはとても心に響く作品だった。そのころ僕は中学生だったから、この心に響く、というのも所詮中学生の感性である。反対にあのゲームを製作者(当時大学生)より上の年齢層がやっても感動は薄れるだろう。すなわち、あのゲームをプッシュしたのは、製作者よりも低年齢の世代だと考えている。
後でこの点に触れるのだがフリーゲームを語る際、どの年齢層の製作者が、どの年齢層にうけの良いゲームを作ったか、これが重要な点である。ここまでの二つの強調した部分を抑えてもらいたい。
それでは何故衰退したのか。言い換えれは前段の魅力に当たるものが失われた、または価値基準が変わったためだ。もっと言うのであれば、魅力に当たるものが破壊され、価値判断が変えられたのである。ここからはより詳しく考えよう。
2章:衰退を引き起こしたと思われる事象
以下に僕の考える衰退の原因を列挙する。
- PCの性能向上
- 能力のある製作者の流入
- 情報交換に2chが使用されるようになる
- 過去に注目されたサイトの閉鎖、管理放棄
- 厨二病という言葉の発生
- 時代の経過
読者の皆さんは、上記の原因に疑問を持っただろうか。僕としてはこの疑問が説明によって晴れると幸いである。もっぱらノベルゲームを主体に考えているが、ひねりを加えて、DirectXを使ったゲームなどにも適用できるので、必要であれば置き換えてもらいたい。それでは順に考えていこう。
PCの性能向上による弊害
一つ目の『PCの性能向上』、これはフリゲ界にどのような影響を与えたか。結果的には悪影響であったように思えるその理由は、ゲームの表現の幅を広げたことである。この表現の幅を押し上げたことは、製作者にとってどのようなことになったか。
ソフトの方面で現状をみると、スクリプトをより高度に組んで、見せ方に成功した作品はないと思われる。したがってゲームそのものを作るソフトの機能向上は薄いだろう。しかし、製作者がPCの性能の向上によって、よく見せるために全体的に使うツールをシフトしたことは見逃せない。結果的に、ユーザが扱いにくい、既読スキップの機能などに欠けるコミックメーカーなどは淘汰され、吉里吉里、NScriptが代わりに使用されるようになる。それにより実装の難易度が若干上がることになっただろう。ソフト面では以上のことがあげられる。
視覚面ではどのような変化があったか。昔以上に解像度の高いゲームが主流となっている今、解像度の高い素材も要求されている。昔の素材は一部がこの理由により無価値に近くなったものもあるだろう。表示色数も増えている。だから昔の低解像度時代に使われた優秀な素材と、今、高解像度として使われている優秀な素材、どちらが充実しているように感じられたか、ここが問題だろう。僕個人では、素材を漁って昔より減ったように感じられた。なぜならば、解像度の高い物を素材として作るには、それなりにごまかす腕や、実際のアングルのノウハウを使える素材提供者が必要だからである。背景素材という視覚面ではこんなところだろうか。
音は改善されているように思える。チープなMIDI音の選択肢が狭まっただけで、効果音については今のほうが充実しているし、音源製作者も増えているように思える。こちらはプラスの面が多いだろう。
このPCの性能向上は何をもたらしたか、その結論はユーザの目を肥やしたことである。ゲームに限らずOSのデザインも良くなった。ゲームにフィードバックさせようと気張るのはいいが、その際表現するのは個人であり、敷居だけが上がっていく。これはユーザとしての目と製作者としての目のギャップを生み、結果中途半端に感じてしまう作品を摘み取る動きを生み出している、僕はそう考える。
優れた製作者による弊害
能力の高いものは前段で説明した、高性能の環境下における表現を存分に使える。これは出来るものにとってはいいことだろう。結果として単発で個が評価される機会は多くなる。しかし不思議なのは、評価されることで製作者のモチベーションは上がり、更なる作品が作られるかと思いきや、実は一作品出して終わり、が多く見られることだ。03年ごろから意識して見ているが、良くて2作品、通常1作品である。ということは、評価を与えてもフィードバックから更なる作品は生み出されずに、すなわちコメントが来なくて嘆く製作者の立場が単にユーザに移っただけであることに注目すると面白いかもしれない。彼らを褒めても見返りは何も無かったのである。
上記が直接的なものといえるのであれば、反対にそれらから感銘を受け、製作者が増えるのなら、間接的にはフリゲ界にはプラスに働いているといえる。この点ではどうだろうか。これは作者に直接聞いてみるほか無いので、表面から考えてみよう。ブームを読み取るのである。まず古参の製作者は他のフリゲから影響を受けて新たなゲームを作っただろうか。僕には無いように見えた。しかし無いことの妥当性についてはどうにもいえないので、疑問に思えば作品と一緒に教えてもらえれば非常に助かる。また、古参は消えていっている傾向にある。因果性は無いだろうが、少なくとも良い影響は与えていないのだろう。
市販や同人から下ってきたものも含めて考えて見よう。同人で言えば、『ひぐらしのなく頃に』や『東方シリーズ』の発表後、同人誌によく使われる題材になったように、あれらには市場を拡大する影響力があった。しかしフリゲでは、『天雨月都』の作者や『腐っている叙事詩』などのゲームを作っている作者が影響を受けたであろう、PC98時代からある『痕』以降に製作者に強いインスピレーションを与えた作品が出ていないように思える。高橋直樹氏のサイトで紹介されているものや、『ひとかた』、どれもがループ系や伝奇、全て初期の頃に絶大な人気を誇ったものであり、いわゆる"葉鍵"がある種の指標であり続けているのだ。そして『月姫』や『Fate』以降に伝奇に陰りがあるのは、既にユーザーの目が肥え、飽き始められているのであろう。伝奇はフリゲにおいて、いまや重要な位置にいない。
すなわち、僕が思うに、優秀な作品はユーザを一つに集め、しかしそこから発展させないのである。多少チープなほうがユーザが自分にも出来るかも、と思わせる隙を持たせる他、これでも面白いんだからチャレンジしてみよう、と発展させる傾向がある。しかし隙が少ないものほど、自分とは違う土俵のいわば作品として遊び、その中の等身大の作者が想像できない。また、実力の差から挫折するものも居るだろう。有能な作者の場合は、あとがきやサイトで魅せたり、自分よりも力のないユーザに歩み寄らなければ、初心者のステップアップの機会を摘み取ってしまうのである。例は控えるが、どういう作品、絵の傾向が同人誌を多く生み出すか、を考えればあながち間違っていないことが分かってもらえるだろう。
情報交換に2chが使用されるようになった弊害
2chの存在は、より多くの作品に光を当てる機会になったが、発展には貢献しなかった。顕著になっていったのは、フリーゲームまとめが閉鎖する少し前くらいからだろう。以前と比較しながら考えてみよう。
2chがフリゲに影響する前は、言い換えれば関連したワードで検索しなければその存在を知る機会が少なかった頃である。そのために、各人は個人サイトのレビューを見る、もしくはVectorのゲームの項目から調べ見つけるのが中心だっただろう。僕のフリーゲーム論で以前お伝えしたが、家庭用ゲームより、少しばかり能動的に探さなければいけなかった時代である。この時代の特徴は、まず何がいいか分からない状態でレビューを元に合うかどうかをする必要があった。また、レビューサイトも多かったために、検索で出てきたサイトが多ければ注目されているのだろう、と漠然と作品を知り、手に取っていた。その作品が気に入った場合、ユーザが製作者に見返りとして与えたものは、レビューを行って紹介することや、メール、掲示板に面白かったと伝える、などである。気に入らなかったときは、多くの場合ゴミ箱に直行して終わりだろう。わざわざ荒らすケースが多くあったとは聞いていない。
重要に思えるのは、製作者が宣伝する手段は以下の2つしかなかったことだ。多くないフリゲ登録サイトに上げて人の目に留まりやすいようにすること、他の個人サイトの掲示板で紹介することだ。
しかし上記の慣習は2chで語る機会が増えてから変化した。まず、まとめ、といった形で2chお墨付きの評価が下るようになった。すなわち、ネット界での常識のように感じさせるネームバリューを持つ。そして日本のネットでの、とりあえず2chを見れば大体分かるだろう、と言える情報の集中化は、言い換えれば2chさえ見れば他は見なくても妥当な判断を下せる、という思考停止を起こすきっかけとなる。物好きではなく、良いゲームを優先的にやりたいという人は頼れる存在であるし、わざわざVectorの新着をかたっぱしからDLしなくなる。何が起きるかというと、調べることでそのゲームを手に取ることが妥当か、が以前にもまして簡単に分かるのである。
次に評価を簡単に知れることである。2chは掲示板であり、本来は書き込むためのところである。勿論読むだけの人もいるが、発言を誘うには十分な環境である。するとわざわざメールを送って製作者に伝えようとはせずに、2chでこれお勧め、と書けばいいかな、とも考える人がいるだろう。しかしこの方向性は製作者に向けてではなく、ユーザー間でのコミュニケーションである点において本質的に異なっている。同時に、わざわざ文句をメールで送らない代わりに、2chにぶちまける人もいる。これにより両方の意見が混じるわけである。製作者は興味を持って覘いてみると、褒められているほかに文句を書かれている可能性もある。これは、以前とは異なり製作者が攻撃される機会が増しているわけである。
この行動は製作者へ向けられたものではない。製作者を攻撃したければ直接メール、掲示板を用いればいいからだ。他人が同じ失敗をしないようにだとか、自己主張としてこれはつまらない、と書き込んでいることになる。しかしこれがユーザ間でならまだしも、製作者を巻き込むと、とたんに問題が生じてくる。製作者にとっては陰口を叩かれているのとなんら代わりはない状況だからだ。煽りに耐性があるならいいが、そうでない人には、トラウマになるケースは少なくない。こうなると製作者にとって、2chは非常に危険なところである。
そしてこれから言う事象が2chを悪性のものに変えてしまった、と僕は考える。それは、先ほど説明した、製作者の宣伝する手段に、自分の作品のレビューを行う、という選択肢が追加されたことである。これにはスキルが必要だ。なにせ客観視しつつ肯定しなければならない。賢い者がやればうまく使うことも出来るだろうが、煽りになれない者は悲惨なことになる。その結果、レビューの正当性を否定される、つまらないなどいわれる、そもそもスルーされる、などとなる。否定される、つまらない、これらが書き込まれた場合、そんなことない、と否定したくなるだろう。しかしこう噛み付くことが、第三者なら異常なのである。必然的に作者扱いされ、その作品がそのような製作者を連想させるならなおさらである。スルーされることも問題である。不安になり、再度自己主張しようとする。それは何度も同じレビューが上がることになり、やはり不自然であるし、すくなくともスレの人たちは見たくないだろう。
昔、他の掲示板でしつこい存在は、少数の人間に嫌われるだけで済んだ。しかし2chはより多くの人が目にする。お互い不快な思いが募ってくると、些細なことにスレの人は怒り否定する。結果レビューとしての体を保たなくなり、信憑性に欠け、スレの情報密度が下がる。フリゲの総合スレを追って見ている人であれば、この実情は理解してもらえるであろう。僕はフリゲには否定を目的とした批評は必要ないと考える。
こうして2chは毒性の強いものへと変質した。影響力の強いものがネガティブになれば、やはり良い影響は及ぼさない。まとめの閉鎖もあいまって、一部のユーザには、更新停止以後、フリゲの勢いが失われたように錯覚したことだろう。
過去に注目されたサイトの閉鎖、管理放棄による弊害
これは多くを語る必要はない。wwwにおいては、一度掲載した情報の消去は罪である、という考えが先行してある。リンク切れはよりネガティブなイメージを植え付ける。少なくとも消してはいけない。
余談だが、管理しきれないものは有料サーバを借りるべきではない。今風に言えば有料サーバを借りたサイトとは、すなわち死亡フラグがたったとみて、多くのケースに当てはまるだろう。サイトを所持している人なら分かるだろうが、楽しいことだけではなく、管理の手間や、さまざまな対処に時間が食われる。また、安いサーバでも年間数千円必要である。だからこれを支払うことが出来ない可能性がある人がサイトを持つと消えてしまうだろう。有料サーバは技術と時間とお金が最低限揃っている人が、初めて幸せになれるのである。
フリゲを個人サイトで掲載していて、ドロンした場合が最も最悪のケースだろう。僕の知っている限りでも落とせない貴重なゲームがいくつもある。何らかの手違いで消してしまったときや、昔の良作を改めて知ったときに入手できないことは、どうたとえようとも理不尽である。しかしこれには違った見方が出来るのだが、それはまた時を改めて記事にしよう。
wikipediaに書いてある通り、アフェリエイト目的のレビューサイトが増えたことも見逃せない。芯を捕らえない不確かな情報を流しているケースもあり、ネットの情報密度を下げることになるからだ。アクセス不能なのが落とし穴だったら、これはそれを取り巻く斜面だ。二つをあわせてアリ地獄が完成する。
漠然と触れたが、見れた良いものが見れなくなることは、本当に惜しまれることである。これは後々記述するが、フリゲのとある土台を崩す悪行であることを、今はなんとなく抑えておいてもらいたい。
厨二病という言葉の発生による弊害
webで今や何処でも目にする、『厨二病』。僕はこの言葉が大嫌いなために、もしかすると人より切り込めるかもしれないし、偏見で終わるかもしれない。そして僕なりに断言するが、厨二病とは、特に創作活動におけるジュブナイルの特色を否定する言葉である。
この言葉が何処で発生したかは分からない。意味は僕の認識する限りでは、中学2年生や第二次性長期、反抗期特有のあのやるせない感覚や反骨精神、自分が世界の中心に居る感覚を戒めたり嘲笑するものだと考えている。また、人によってはその時期にいいとされるものの延長線上にあるもの、『月姫』や『ひぐらしのなく頃に』を厨二病的~として同一視するケースも目撃したことがある。
特徴は、これに当てはまる人には気がつかせず、その時期を抜けたものがこう比喩することである。この背後には、自分たちが抜けたことに優越感を覚えつつ、こういう事もあったなと恥ずかしさを覚えながら批判する態勢にあるように思えるのだ。しかしただの批判と異なることは、気の利いたことを、この時期の子供たちにも伝えようとはせずに、一言で片付ける点にある。なぜならばこの言葉は、今の若者が何も考えずに『きもい』と発するように、厨二病を他の言葉に置き換えて説明しようとしない思考停止の性質を孕んでいるからだ。本当に考えているのであれば、この単語を用いずにもっと別の言い回しを用いる。
きもい、という言葉は明確な定義が仮にあったとしても、個々の感情のままに使われる。同じようにネットでは厨二病も定義通りに使用されていないどころか、そもそも明確な定義を持っていない。だからいまや、年齢不相応な創作活動にいそしむものにも使われたりもする。このように大枠の意味を相手に伝えるためには悪くないが、その際に個々の解釈可能な余地が多分に含まれ、かつネガティブな印象を与えやすいことが問題であるのだ。
若い頃はエネルギーがある。運動でなら成果を挙げることが多いが、創作に関しては勇み足で終わるケースがほとんどだろう。しかも後々見るに耐えないものが作られたりする。それを恥じる体質が後に厨二病と発言する。ただこの一言で、実は他人の創作活動を阻害している可能性を考えたことはあるだろうか。作品を表に出す際、恥となるものは出したくないのは当たり前である。それでも若い頃は勢いあまってやらかすものだから、まあこの時期の製作者には影響は少ないと考えている。しかし、一度このことが恥ずかしいと感じたものは、このような評価を聞くたびに、自分の作品がそういわれなくとも否定されている感覚に陥ることもあるだろう。ましてや、その系統さえ含まれれば、厨二病的と比喩されるのであれば、その範囲は予想以上に広大なものとなり、背後に隠される重要なテーマを読み取ってもらえずに、ああ中学2年生のあれか、で簡単に片付けられてしまう。
厨二病という言葉の裏には、新たな人格の否定の方法と、シナリオの曲解、そしてテクストを読み取らずに思考停止に至る3つのマイナスとなるポイントを含んでいるのだ。スラングにより昔より評価を得ることが難しくなった、僕はネットを見ていてそう感じる。
時代の経過による変化は何をもたらしたか
これは以上の点を踏まえて、さらにもう一歩踏み込むための単元である。すなわち、この衰退に関する項目の総括であり、かつ時代を含めた考察を行っていく。先にまとめを書いていこう。
PCの性能向上は、個人の表現可能な範囲を広げ、より高度な作品を作れることを可能とした。しかしそれは技術のあるものだけで、持たないものは修練しなければ技術的な魅力はいまや望めない。また、フリゲ界の技術は高まり、個々を評価する場合においては、昔からは良くなった。
それはメリットの方が多いようにも感じられるが、土壌を育てるという意味においては何故かプラスに働かなかった。その原因は、技術の高いものは今までのスタンスから離れていたからである。これは、同人界のうまみや規模も大きくなり、それを目指すためのステップとして使用されたりすることにより、フリゲ界は、いつの間にか商用に近づいていったのである。
2chの存在も変化をもたらした。より製作者はユーザと近づけたが、反対にそれは攻撃的な意見にもさらされやすくなった。かつ製作者もユーザを装い、自分の欲求を満たすことが可能になったからである。これは双方にとって不利益をもたらした。
厨二病という問題もある。ネット専用の他人を傷つけるこの言葉は、よりによって創作者の芽を摘むような効果があった。
そして今、昔から何が総合的に変わり、この衰退をもたらしているのか。それはまさに、フリゲ界が過渡期を越えたからである。すなわち、過去のスタイルが良かったと思うのは、競争が無かったからだ、と僕は考える。
昔は指標がなく、それを商用に頼り、個人で出来る範囲で再現を行った。結果、フリゲの姿としてもてはやされた。しかし、今は同人に近づき、スタイルは過去とは違う。また、他のメディアと異なりデジタルデータからなるフリゲは、一度公開されればされ続ける限り、いつでも遊ぶことが出来る。これは全ての作品を同列に競争にかけることに他ならない。さまざまなゲームが公開された今、何を作るにしても前例があり、それとの対比で評価される可能性を持つ。製作者にかかる負担はより増えているのだ。
それに対し、製作ツールは相変わらず何年も使われ続ける。この状況を変えない限りは、アイディアと完成度と魅力で表現のリソースを潰しあうだけである。何か大きなことが起きない限りは、今後フリゲは今までフリゲとして扱わなかったジャンルに手を伸ばし多様化し、つまらないものでは見向きもされない時代が来るだろう。現に母数が増えその傾向は強まっているし、起こるべき変化としては仕方が無いものなのだろう。
3章:本当に衰退はおきたのか
十分に吟味したと思えるので、もう一度問題提起しよう。果たしてフリゲ界は衰退したのか。今まで考えた、変化した部分を以下にリスト化しよう。
- 時代にあわせた素材の欠乏
- 肥えたユーザの目
- 技術の魅せる範囲拡大による底辺の冷遇
- フリゲの環境の同人化
- 過去に注目されたサイトの閉鎖、管理放棄
- 2chの影響力の増大
- 2chの質低下
- 製作者への暴力を振るう機会の増加
- 時代を超えた作品の増加
- 増えない製作ツール
巨視的に捕らえよう。上の問題には、単純な時間経過でおきて然るべき事、予想外だった自然災害的な事、個々の努力で改善を図れる事がある。それぞれを分けて列挙する。最初は単純な時間経過でおきて然るべき事だ。
単純な時間経過でおきて然るべき事
- 肥えたユーザの目
- 時代を超えた作品の増加
- 技術の魅せる範囲拡大による底辺の冷遇
上の2点はこうなると目に見えていた。どうしようもない変化である。ただし、どれもこれも致命的(なほどに過去から変化を生じさせるもの)である。データ化されたゲームが出回る前までは、新たなゲームに出会いにくい代わりに、干渉することも無かった。それが今では、常に過去がありこれからの製作者にはプレッシャーになる。衰退はさせなくとも、明らかに変質を誘う大きな問題である。
変質でも十分なのだが、それに伴って最後の1つ、技術力の差が問題にもなる。多くの系統が、様々な完成度で出ると必ず何々以上何々未満、と細かく評価する心的なトリガとなる。
これらの必然的な変化は、個々の魅力ある作品を増やした代わりに、能力の無い製作者を一掃しようとする働きがあることが大きな問題だろう。最初の目的、製作者の興味などからは遠のき、よりユーザのニーズを満たすための表現の手段と成り下がる。むしろ遊び手からすれば、いいことなのかもしれないが、この競争原理は少しつらいものがあることも知ってもらいたい。
予想外だった自然災害的な事
- フリゲを取り巻く環境の同人化
- 2chの影響力の増大
- 2chの質低下
- 製作者への暴力を振るう機会の増加
以上の4つが当てはまるだろう。しかし2chの影響力が増して以後は、質低下も容易に想像が出来たり、同人も幅広く捕らえればいずれ関係が強まったこともある。しかし先の分類から比較すると、幾分か確率が低めなのでこちらに分類させてもらった。
環境の同人化、これは先の時間経過でおきて然るべき、とした技術格差を助長する結果となっている。フリゲを登竜門として使う製作者は、技術が上がってから品質過剰な作品を供給する可能性は低いとしても、一作しか出さずに消えることになる。これは先ほど言ったように、登竜門としてのフリゲの使い方で終わり、後続のフリゲ製作者を励ます結果にはならない。すなわち僕の考えでは害悪が上回るだろう。
それの反対として、同人作家がフリゲに下ってきても同じような問題が起きる。なぜなら同人作家は元々同人を中心に活動するつもりだし、今度こそ宣伝目的が強まってくる。例外はあるだろうが、おおむねこの傾向が強い。
下の3つの項目については、全てコミュニティの接近が原因である。昔は拡散していて、低い年齢層は低い年齢層で討論していたものを、ひとまとめにした弊害のほうが上回ると見ている。質低下は、それに伴って当たり前のように起きた変化だろう。
製作者への暴力を振るう機会の増加は、単純に衰退を招くこととなる。大人であれば、コケにされても耐えることは出来るが、中学生などにはなかなか厳しいものでもあるし、結果として第二、第三の攻撃する人間や、製作を諦める人間が出てくる。ここで、それぐらいで淘汰される奴はどの道おなじ、と考える人も出てくるかもしれない。当たり前の話だがそれが逆説的に、淘汰を助長しても良い、とはならないことも忘れてはならない。僕は、子供たちを褒めて伸ばすコミュニティであってほしいと考える。
個々の努力で改善を図れる事
- 時代にあわせた素材の欠乏
- 増えない製作ツール
悲しいことにこの2点だけ、しかもフリゲ製作者とは異なる人たちの努力が必要だ。他にも無いだろうか、と思索したのだが、やはりこの2つしか無いように思われる。しかしながら、この上位にはコミュニティの衰退、という大きな問題があるので、これの改善を担うことになる点では悲観的にならなくてすむだろう。
時代にあわせた素材の欠乏は、言い換えれば製作者の表現の幅にニーズが追いついていないということになる。今思いついたのだが、僕がフリーゲーム素材を簡易登録、一括管理するいわばFlickerのライセンスフリーのみ登録可能なサイトを立ち上げればニーズはあるだろうか。この記事を読まれている方は、製作者とは異なる人たちかもしれないが、よければこの点について記事下のフォームからコメントしていただければ幸いである。話がそれてしまったが、僕には、今こそ、このようなシステムが必要に思われる。
増えない製作ツールについても、作ってもらう、としか言いようが無い。現状の問題から言えば、高機能版かつ高難易度、か、簡易版かつ表現の制約、これしか無いのである。僕は、動画に強い製作ツールや、縦書きに強い、クリック範囲が簡易に選択可能、などの簡単に技術の無いものでも表現の範囲が広げられるツールが出現すれば、なかなか面白いことになるのではないだろうかと考えている。
衰退せずに変質した現在
十分に吟味したと思えるので、もう一度問題提起しよう。果たしてフリゲ界は衰退したのか。答えに至るまで、僕は数日を要した。結論を言う前に余談を挟ませていただきたい。
先日『ウェブ人間論』を読んだのだが、以前から考えていたように、weblogで自分の考えを述べることは、自分と向き合うと同時に、自身への誤解を招く原因にもなる。だからこそ、一つ一つの事象を吟味し、このときの自分が全力をもって、答えを出さなければいけない。その代わりにブロガーは成長のチャンスを与えられる。僕にとって真剣に考えるきっかけとなった、このフリーゲーム論と先駆けになった考察を価値が無いものとして切り捨てる可能性もあった。だからこそ、ここまで支えてきてくれた友人達とtacashi氏に感謝の意を表する。
結論はタイトル通りに、衰退という前提を間違えていたのだ。フリゲ界はこの10年を経て、最初の過渡期を乗り越え、変化したのである。それもより厳しい世界へと、凶暴に変貌したのだ。08年現在、僕はこう考える。
フリゲは─何度も言うが─変質したのである。それは抽象的に言えば、第一世代の思い描いていたものを飛び出し、新たなフェイズに移行したのである。ただし、同時に製作者も、元はどのような思想の元でゲームが作られていったのかを忘れてしまっている、これが製作者を取り巻く問題だろう。昔楽しみ、今不満を感じている人は、そこにわだかまりがあるのではないか。次なるステップへと気持ちを乗り換えることが出来れば世話ないのだが、僕もやはり当初の考えを捨てて、受け入れるには厳しいものがある。このままでは、技術の無い者たちが淘汰され続け、フリゲは敷居の高いものとなってしまうからだ。だから次の最終章では、そうしないためのシステムへの考えに至る前段階、"昔と今、何が変わって、何が変わらなかったか"、それについて僕の考える答えのヒントを示して、今回は筆をおくこととしたい。
最終章:変わる世相と変わらない本質
それでは、過去と現在、なお変わらないフリゲの本質とは一体何なのか、を考えていこう。
変化した点について、いまさらだが、僕の考えは、フリーゲーム論─買うとタダの違いとは─から妥当であることを証明している。すなわち、同人と近くなったことによって、『買う』特性と『タダ』であった特性が近づいてきたのだ。だから、僕は以前の記事で、遊ぶ側にも製作者の意図を汲んでもらいたい、市販品との比較だけで終わらせないで貰いたい、そう書いた。事実そのような傾向は、今回論じた事象を中心として進行していった、と今は胸を張って言える。
そしてこれは世相由来のものである。時代が変わるにつれて、フリゲを楽しむユーザのあり方もどんどん変化していった。しかし僕は強く言いたいが、本質は変わっていない。製作者は金銭の絡んでいない、創作欲で動いていた。ただし、この本質は今、製作者すらも間違えている可能性がある。それはwikipadiaに書いてある一文である。
一時は「無料で遊べるゲーム」というものが静かなブームになり、フリーゲームを紹介・レビューする総合サイトの類が多く開設された時期もあった。現在ではその流れは一段落し、その頃に生まれたサイトの多くは閉鎖されており存在しない。その一方で、フリーゲームの紹介サイトと見せかけてアフィリエイト広告ばかりを貼り付けた内容のないサイトが乱立しつつあるのもまた現状である。
フリーゲーム 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今まで書いたことから想像はつくだろうか。僕からすればこのブームを起こしたのは、『無料で遊べるゲーム』だったからでは無いのだ。確かに無料で遊べるのは、遊べない時代と比較してある種の魅力だっただろう。最初に手に取った理由はそれで間違いないと僕も考える。しかし、つまらなければユーザは離れていった。なんといっても商用の一定クオリティが保たれたゲームでしか遊んだことが無いのである。にもかかわらず離れなかったためにブームが訪れた。それこそがインディーズゲームの魅力に他ならなかったのである。
それを忘れて、ただクオリティを上げて商用に近づこうとする全体の動きは、僕からすると愚かだ。なんといっても遊びが無い。フリゲという土壌でゲームを作っているにもかかわらずに、むざむざと商用と同格で扱われようとして、結果、全体の首を絞めるのである。フリーゲームは決してバベルの塔を完成させてはいけないのだ。
だからといって低品質でいきましょう、といっているのではない。全体を育てましょうと、僕はいいたい。フリゲは個々の作品だけではなく、それらを包む評価者やユーザ、コミュニティと、他のゲームから影響を受けて完成させていくその姿が、何よりも美しいのだ。
あとがき
今回の記事、いかがでしたでしょうか。僕は批判の方が多いのではないかな、と思っていますが、これが僕の今出し切れる回答です。
正直今回は筆が進まずに、かなり難航しました。インフレのバランスは3日で25kと、今考えると恐ろしいペースで考えていたのですが、あれは楽しかったからですね。今回も最初はかなりいいペース(1時間当たり4k)で書き進めていたのですが、後半、思考を纏め上げるのに苦労しました。結局、資料を漁っていた時間も含め、20時間強、6日に渡っての執筆でした。
僕は個々の作品の評価は怠らずにやっています。しかし執筆の際は低いレベルに合わせて考えている点も知っておいて貰いたいです。全体主義、って奴ですかね。しかし自分が今作っているノベルゲは、ちょっとクオリティが高めなダブルスタンダード。もちろんあとがきやらでぶっ壊しますけどね。それよりも早く完成させたい。
このような執筆は、書いている最中に、ああなるほど!とひらめくことが何度もあります。それもこうやって書き進める際の一つの魅力ですね。自分という可能性を感じ、また失望しながらより深く考えていく、これは癖になります。道理で最近ゲームをしないわけだ。
今回はこんなところで、次回は書ききることの出来なかった、弱者も含めた可能性をどのように打ち出すか、を書きたいと思います。もう考えは出来上がっているので、時間を見つけ次第、2週間以内に書き上げたいなと考えています。それでは今回も疲労感がいっぱい、達成感もそれなりのフリーゲーム論、ここまで読まれた方、お疲れ様でした。読まれた方の肥やしに少しでもなればいいなと願っています。
加筆修正部分
pongと書きましたが、正しくはTennis For Twoでした。記憶だけで検証していなかったので勘違いしてました。双方共にドットをはじき返すようなものなので、知らない方はおよそ同じものだと考えてください。ただしpongは商用なので、開発の意図が異なっています。
なお、以下のように、もっとフリーゲームに近い存在の指摘をしてくださっています。
フリーゲームの原型という事であれば、先述の『Space War!』や、インターネットの前身であるARPAnet上で配信された世界初のテキスト・アドベンチャー・ゲーム『Adventure』が、それに近いと言えます。
これらのゲームには、
- 研究者や大学生が余興として製作した
- 無償で入手可能であり、だれでも自由に遊ぶことができる
- 電子通信ネットワークや記憶媒体(『Space War!』当時は紙テープ)を通して、"人づて"に広まっていった
という、現在のフリーゲームにおいても見られる特徴をそのまま見てとることができるからです。
以上のように考えたほうがスムーズかもしれません。執筆の段階で、僕はTennis For Twoを、最初に開発されたものに、既にフリーゲームとしての考え方が宿っていたという、思想の普遍性を指摘したかったために用いたので、その後の展開は、上記のものが、フリーゲームの特徴としてより適していることを僕からも追記しておきます。

コメント (2)
細かい事ですがこの場合は傷痕ではなく痕、伝記ではなく伝奇ではないでしょうか。
投稿者: xylitolgum | 2008年5月19日 23:17
日時: 2008年5月19日 23:17
気をつけているつもりでも誤変換などがありますので助かります。
修正しました。ありがとうございます。
投稿者: shiki | 2008年5月20日 13:03
日時: 2008年5月20日 13:03