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フリーゲーム論─懐古しつつ今を行くゲーム像─

http://libertatem.org/2008/06/freegame6.html

目次

文章の規模が大きくなりすぎたので、多少でも読みやすいように目次とその説明を書いておきます。もしタイトルに興味があるのであれば、このまま読み進めていってください。

注意!ページ内リンク

  1. はじめに
    今回の趣旨
    注意事項
    今回考える際に除外する範囲など
    早めの謝辞と補完記事
    今回参考にさせていただいた記事
  2. 1章:あり方を見直し、優れた前例から学ぶ
    衰退の復習
    フリーゲームらしい、活気の定義
    前提の定義
    まずは個々の努力で改善
    改善例をツクールに学ぶ
  3. 2章:海外に目を向ける
    海外から学べそうなこと
    ゲームの楽しみ方の差
    日本の場合
    同人文化を加味した考察
    海外の場合
    MOD文化を加味した考察
    楽しみ方の差のまとめ
    上記を加味するとわかる差
  4. 3章:海外や過去の優れた点の融合を目指して
    いい点を加味して何が見えるか
    要点を紐解く
    まずは簡単に考える
    CardWirthに学べ
    シナリオの作成難易度が低いこと
    多くの人が参加できる例
    シーズとニーズが一致すること
    シーズを操作した例
    キャラクタに愛着が湧くこと
    値だけでない楽しみ方
    CardWirthが成せたこと
    みんなが作れ、遊べるゲームの姿
    海外に学べ
    フォーラムのメリット
    匿名性を取り払うこととは
    特徴ある開発者のスタンス
    ユーザ独自の遊びを認めること
    二つを経て見えるもの
    CWの失敗点から学べること
  5. 最終章:いくつかの提案
    最後に僕の考え
    ゲームを作ろう
    こんなゲームを作ってみよう
    フォーラムを作ろう
    日本にあったフォーラム
    共感した人たちができること
    第三者はいかに参加するか
    そして最後に開発者ができること
    引き時も大切かも知れない
  6. あとがき
    書き終わって、所感

はじめに

今回は前回の記事、フリーゲーム論─フリーゲームは衰退したのか─(以下『衰退について』)の終わりからの続きとなります。前回の記事を読んでいなくとも理解できるように書いていきますが、適時参照していただけるとありがたいです。内容は今の時代でウケるフリーゲームについての考察です。

前回の記事、『衰退について』では、文字通りフリゲは衰退したのかを考察しました。若干、人によっては、かなり強引な内容に感じられたかもしれませんが、僕にはあのような結論となりました。それでは、そこを踏まえたうえで、どのようなものが今後の人気を担う作品となるのでしょうか。

注意事項

今回の記事では、その人気により、製作者、コミュニティを巻き込んで成長するものについての考察ですが、個人的な好き嫌いや、不得意であるジャンルもあり、ニコニコ動画を無視するものとします。それとともに東方シリーズから意図的に学ぶことも避けようと思います。

その理由は、(東方については語弊がありますが)それらのコミュニティの盛り上がりは、クリエイトする土壌としては十分なものではあります。しかしながら、キャラクター性に依存する土壌はゲームのあり方としてはいかがなものか、と疑問に思うためです。僕の考えでは必要以上にニコニコに関与して、製作者の作るゲーム以上にコミュニティが活性化すると、ユーザは一人歩きを始め、本来のゲームが埋もれます。ですから予め強く主張したい事は、製作者の管理可能なゲームが、本質的に意図されたゲームであり、ユーザが補完する世界は同人活動でしかないことです。

早めの謝辞と補完記事

前回の記事には、自由遊戯黙示録での自由遊戯・紀元零年で、参考について詳しく指摘していただきました。僕自身勉強になりました。tacashiさんありがとうございます。今回はこちらでフリーゲームの特徴として挙げられている3つについて、引用させていただきながら、話を進めていこうと思います。

1章:あり方を見直し、優れた前例から学ぶ

前置きが長くなってしまったが、『衰退について』で長々と説明した、3章の本当に衰退はおきたのか(注意、別ページの中段に飛びます)を改善する方法に焦点を当てて話を進めていく。

さて、今日のフリーゲームで重要なことは、『買う』特性と『タダ』の特性を再び引き離すことである。フリーゲーム論─買うとタダの違いとは─、や、『衰退について』でも言及したが、要約すると『買う』特性は、強者に目が行く市場原理的なものがより強く働く。これは確かにいくつかの質の高いゲームを出すことになるが、その後を育てる要素が少ないし、何よりもこれは消費者主体の考え方である。製作者は常にご機嫌を伺いながら作品を作ることになるし、これは本来のフリーゲームのあり方からは異なっている。

『タダ』の特性とは、むしろ、そもそも市販品とは異なるものである、という意思の現れである。こちらのほうが自由に振舞えるゲームを作る土壌を育てる。だから僕は衰退の原因になった事象に順に挑んでいきたい。

手順としては、個々の努力で改善を図れる部分を最初に修正し、結果的に変質した単純な時間経過でおきて然るべき事を局所的に改善する。そしてあわよくば、予想外だった自然災害的な事をも修正、影響の低減ができれば、というプランであり、過程の上に過程を積み上げていっても信憑性に欠けるので、個々の改善方法以外は書かないでおく。もちろん理想論で終わらせるのではなく、いつもどおりに過去に習ったことから提案していきたい。

フリーゲームらしい、活気の定義

予め目標を設定しておかなければいけない。僕の意向は既に注意事項で現れているのだけれども、『衰退について』で述べたように、目指すものはゲームそのものの製作者のコミュニティを中心とした盛り上がりである。

ひとつの優秀な作品よりも、いくつもの光るところがある作品が望まれていることと考え、それが全体にとって利益になる事が、フリーゲームらしい、理想の活気と定義する。

まずは個々の努力で改善

個々の努力で改善を図れる事として定義したのは以下の二つ。

  • 時代にあわせた素材の欠乏
  • 増えない製作ツール

これは、視点を変えて捕らえ、製作ツールが悪いと僕は考えた。現状の開発支援ツールは、すべてRPGはRPGのフォーマットを差し上げます、ヴィジュアルノベルはその通りに、STGもSTGになるようにツールにより支援しましょう。しかし、素材は自分で調達してね。これが実情である。

確かにゲームを形作ることは、ゲームだけではなく、素材も重要な要素である。しかし、必要条件を増やせば、完成までの道のりは遠くなる。いくばかりかサポートしているものは幸いである。反対にSTGなどは悲惨だ。ゲーム性を新たに打ち出すためには難しいくらいに既に試行錯誤され、慣例のあり方に従った上で、もはや視覚、音響効果が大部分を担いつつあるからである。

上の定義で優秀な製作ツールはツクールシリーズだ。CGや効果音、(サンプルゲームによる)最低限のスクリプト、これらが整っている。そして一歩素材探しに踏み出せば、素材は多く見つけることが可能である。あえて挙げるとするならば、いい素材はさまざまなゲームで使い古されているか、埋もれてしまって見つけにくいか、だろう。

ただしこの問題を見逃してはいけない。なぜならば、大抵の素材はウェブ上にあるにもかかわらず、それを発見するまでの時間が膨大に必要なことと、そもそも存在しない可能性があるからだ。また、ほかのサイトのチュートリアルを見て理解するのも大変である。確かに吉里吉里にせよ、C++にせよ、大抵の実装方法はウェブ上に何らかの形で説明されているのだ。しかしそれを見つけ、理解することは容易ではないことは、わかっていただけるだろう。また、バージョンが違うたびの変更点も理解の妨げとなる。そういった問題においては、悪いケースとなるのが個人つくったチュートリアルをしばらく更新していないときである。それらに今よりも対応できない限り、本質的に解消されていない、そう考える(確かにニーズのあるものは情報も充実しているが、ゲームについてはこの限りではない)。だからこの段落の問題を、「1.検索の手間隙が膨大である」こととしてマークしておきたい。

これの改善をするということは、基本的にツクールと同じような環境を設けることだ。まずゲーム製作が可能なだけの素材を与え、技術を持たないものでもとりあえず完成できることである。一度完成にこぎつければ、企画倒れとならないだけの見通しとスケジュール力を養うことができる。だから吉里吉里などでは、テンプレートパックと称して、ホラー向き、学園もの向きのサウンドと背景、そしてスクリプトの穴埋めで完成できる状態で配布することにより、ある程度実現できるだろう。

2章:海外に目を向ける

次は海外から学ぼう。といっても僕は海外のフリーゲーム事情に詳しくない。ひとついえることは、日本のゲームと大分趣が違うことだ。また、国外のフリーゲームを知り、双方のコミュニケーションを図ろうとする国内の製作者は、海外に近い匂いを作品から放っている。『ナノスマイルズ』のゲームシステムなどが丁度それらしく感じた。

けれども今回は、作品のあり方には目を向けない。指摘したいのは、日本とは違った方向にアクティブなコミュニティのあり方である。これは国内とどう異なるか。ここは商用のゲームも交えて考える。

ゲームの楽しみ方の差

まず、ひとつの作品をやり終えたとしよう。あなたは存分にそのゲームを楽しみ、好きなキャラクターも何人も挙げることができる。このときにどういったアクションを起こしたくなるだろうか。

日本の場合

実際のところ、国内ではこの感情を、作者に連絡することは勿論だが、絵を描いたり、同人的なサイドストーリー補完が多いように見える。なぜこうなのかは知らないが、事実としてこういった傾向がある。これが小規模でおきたときにどうなるか。製作者がそれだけ堪能してくれたことを喜び、また他のユーザがそれに触れることとなる、を答えとする。

これは大規模になった時に少し変質する。勿論製作者は喜ぶ。他のユーザは以前にまして触れる機会が増す。そしてこの影響は、製作者に向けるものよりも、ユーザ同士の相互の交流が強まるのだ。僕が以前『インフレのバランス』でも軽く触れたが、興奮などの感情は、対数のように、受け取ったときの感動のインパクトが変わる。だから製作者の受ける興奮は、(感謝に当たる情報を受け続ける期間の差はあれど)ある一定の値に収束する。

このときユーザはゲームの感想を自分に向かってきたものとして捕らえないので、ひとつの感想や絵に対していちいち反応しない。興奮は限りなくゼロである。ただし大規模になったときは、ここで例としてあげよう、東方の同人のように、その話題性がユーザ同士を興奮させるのである。ただし注意しなければいけないことが、ゲームそのものがコミュニティによって高められるのではなく、ユーザ同士が補完しあい、満たされるという、注意事項として書いた、ゲームとコミュニティの乖離を引き起こす。この状態に至ってしまうと、本質的にゲームを押し上げている人は、ゲームが好きでたまらなく毎週プレイしてくれる人種のみとなる。

海外の場合

海外の場合は、どの程度の人たちが日本と同じような経過を辿り、楽しんでいるかはわからない。しかし決定的に異なるひとつの文化がある。それは、もう何度も論述する際に引用しているが、MODである。

存分にゲームを楽しみ、かつゲームのソースコードを理解する人たちは、そのゲームの作り変えや、独自パッチの開発を試みる。絵などで謝礼をせずに、ゲームの変更に従事する。各人に焦点を当てれば、それは開発者に対する一種の感謝かも知れないし、もっとよくできるという野心ある取り組みかもしれない。けれども僕が感じてやまないのは、そのゲームのシステムの縛りをあえて受けた上でなお、新たな世界観を作り出すその姿勢は、製作者への敬意にあふれていることである。本来これだけ技術のあるものは、時間さえ投資すれば自分のゲームを作ることが可能である場合が多い。それなのにひとつの他人のゲームの変更にのめり込むのは、そのゲームの中に自分の理想とするものを見出せたからではないだろうか。このMOD製作という行為は、製作者へのゲームを好きだという意思表示の(ゲームをひたすらプレイすることに並ぶ)最高峰の手段であるし、同時に自分のゲームを作り出すという新たな創作のステップでもある。

日本で商用含め、こういった事例が少ないことが非常に惜しく思われる。

楽しみ方の差のまとめ

(図示したほうが格段とわかりやすいのだが......)結局のところ、日本と海外は以下のような差が出てくる。

日本では、製作者は(海外と同じように)信念を持ってゲームを作っている。それを受けてコミュニティが活性化する。そしてコミュニティの創作物は、特にコミュニティを刺激し、コミュニティの中でマッシュアップされた作品が生まれる。

対して海外では、製作者は信念を持ってゲームを作る。それを受けてコミュニティが活性化する。これにより、いくばかりかの人が、製作者のゲームの開発理念に従ってMODを作成する。ゲームの選択肢が増えるので当たり前のようにコミュニティの遊びの幅が増える。マッシュアップは主にゲームを中心として行われる。

つまり何が言いたいのかというと、どちらかと言えば日本のマッシュアップは、ひとつの作品を元に、外部が勝手に(それもゲームではない形で)行っているのである。海外では、マッシュアップは一旦作品に(特に強調したいのはゲーム性に)帰結した後に、新たな作品となる。

日本の場合では、中心となる作品が損なわれると、それが化石となることである。日本人は流行が好き、というが、いつもそうなるころにはまた新たに魅力的な作品を見つけている。

海外では、最初の製作者を巻き込んで生まれ変わる(むしろ様々なケースを見る限り、巻き込まれたいように見える)。weblogでいうところのトラックバックの発想がある。気質的なものもあるだろうが、そういったものが『plasma pong』などに古めかしい作品を作り変えていくのだろう。

さてここで、注意事項では「製作者の管理可能なゲームが、本質的に意図されたゲームであり、ユーザが補完する世界は同人活動でしかない」と僕は告げている。今言ったことと、ダブルスタンダードに感じていたりはしないだろうか。

よく考えてもらいたい。最初の作品『A』から離れ、MOD『B』が製作されたとする。これは別のゲームとして捕らえればその通りであるが、作品の制約を受けた上でゲームが作成されるのであれば、『B=A'』である。製作者が予測していれば意識可能な範囲に置かれているという視点から、本質的に意図されたゲームと言えるだろう。

もうひとつの見方もできる。MOD『B』は、そのときにおいて新たなゲームであるので、製作者が増えて、ゲームも増えたという考えだ。この場合は、本質的に意図された『A』と『B』、2つのゲームが発生する。だから例として示した前者、後者どちらであっても、注意事項の例外とはならないだろう。

以上のことを踏まえて、ここでの要点は、「2.MODから何かを見出せないか」である。

3章:海外や過去の優れた点の融合を目指して

ここで、先ほどの補足記事からの引用である。

自主制作性
(大学生の小規模なグループによって製作された)
非営利目的
(主に技術的な修練や私的な余興を目的として製作された)
特徴的な流通体系
(記憶媒体を通して"人づて"に配布された。また、無償なため簡単に入手でき、誰でも自由に遊ぶことが出来た)

自由遊戯・紀元零年

3つのポイントでフリーゲームの特徴を挙げられている。この中の自主制作性が、ゲームを作るにあたって何よりも重要である。そしてここを「3.自主制作性」とマークしておこう。そしてここまでの要点は以下の通り。

  1. 検索の手間隙が膨大である
  2. MODから何かを見出せないか
  3. 自主制作性

さて、3つのマークを抑えたところで、今回の話の進ませ方は、若干事例が少ないかな、と思えなくもない。とはいっても、本来的に、国内外の差は変えがたい気質によるものが大きい。だから異論はトラックバックしてもらえると非常に助かるし、そこで僕が大きな見落としがない限りは、だいたい上記の通りであっていると考えている。また、勘違いしてもらいたくないのは、別に国内のあり方が駄目だ、けしからんと言っているわけではない。単なる懐古主義にとどまらずに、昔と今と、海外でマッシュアップを目指す、そういった弱者に負担のかからないネクストステップを目指すための、前回と今回の記事である。閑話休題。

要点を紐解く

上記の要点で、1と3は関連が深い。3を達成するためには、1の壁を乗り越える必要がある。しかし、3とは、考えるにゲームを作りたいと思って自分たちで作り上げる金銭の対価を求めない精神性である。だから3は既に達成されている場合が多く、むしろもっと追い風に乗せて完成までこぎつける、何らかの意欲を外部から湧かせられるのであれば、それが最適である。

1についての解答は、既にツクールを例に挙げて示している。つまりはそういうことであり、簡単なように見えて、実は各人のニーズを満たすためには非常に難しいものである。しかしそうとも限らない。ここで少しばかりヒントを出しておこう。逆の発想で、ニーズを満たす必要はあるのだろうか?もしかすると、ニーズを満たすために素材を用意するのではなく、目指す作品のためにはその素材を使用したくなるという、ある人Aのシーズを製作者のニーズと思わせることは不可能なのだろうか?

2、MODから何かを見出せないか、についても結論は後に控えるが、まあこう書くわけだからあるわけだ。もっとも、MODに限らず、海外のコミュニティ、フォーラムという存在や、有名な商用ゲームのMODに対するあり方から学ぶこともできるだろう。

今の今まで引張ってきたが、以上のように考え、僕の考えにかなり近似したゲームが既にある。それの在り方こそがこれからの時代でヒットすると、考えるゲームである。タイトルは皆さんも知っている『CardWirth』だ。

CardWirthに学べ

CardWirth(以下CW)がどれだけ凄いゲームかは、その時期のフリーゲームとして触れた人は簡単に想像できるだろう。今回は説明を抜きにして、要点に沿った範囲で魅力ある点を示そう。

シナリオの作成難易度が低いこと

CWは、最初にスタッフ製作のシナリオがエディタで展開可能な状態で数個付属してくる。これにより作り方がある程度わかるほか、音や画像まで入っているので、いきなりゲームを作り出すことができる。また、ゲームの関係上、画像にオリジナリティを発揮させる必要は無い事からの安心感がある。また、コンパイラを通じずに、即座に動作確認を行えるのも完成までの敷居を低くしている。欠点は、ゲームの性質上、作りこんだものほど、さまざまなパターンを記述しなければいけないことだろうか。結果は変わらずとも、リアリティあるキャラクタを演じさせるには、性格ごとに言葉を割り振らなければいけない。

サンプルシナリオが、出来のいい割に短いことも優れた点だ。これは、最初に与えられた、いわば平均的なシナリオの指標として、これくらい短くてもいいんだぜ、という前例を与える。そうするといきなり気張って、大作をつくろうなんて無茶なことをせずにすむ。

シーズとニーズが一致すること

前段の安心感はここと関係がある。それは、ゲームのオリジナリティはシナリオで魅せるために、素材にこだわらずに(むしろ素材は無個性なほど、らしさが出る)作成ができることだ。そのお陰で、製作者は更に肩の力を抜いて作成ができるようになる。

キャラクタに愛着が湧くこと

これはユーザ側のものであるが、このゲームはTRPGの流れを汲んでか、ステータスが表に出ないものとなっている。しかもキャラクタが成長しても、あまり強くならない事もある。しかし複数のシナリオをまたがり育ててきたキャラクタは、パラメータには現れない親近感が湧くことと、ゲームのシステム自体が、ガチガチの戦闘を求めていないので、そういった不出来なキャラクタを許容する特徴がある。

CardWirthが成せたこと

以上の点が、CWの魅力である。これらが土壌となった上で、製作にかかるコストが少なく、自由にシナリオを公開でき、それらが存分に関連性をもち、成功した例となった。シナリオ製作者は、一からゲームを完成させるわけではないものも、ゲームを作りたいとい衝動の何割かは担うであろう、表現したいシナリオのゲームを作る、という目標は達成できる。

CWは、一定数のシナリオ製作者を確保した後、本来の開発者の手を離れた。そして今でもシナリオ製作者達の開発は進んでいる。他の製作支援ツールであれば、外枠のみだが、CWは最初に著しい制限と、シナリオの方向性が定義されている。それに沿って数年たった今もなお、ゲームが作られるのは、長く楽しんでいるユーザは勿論のこと、開発者にとっても本望ではないだろうか。

海外に学べ

先ほどのMODで書いたあり方も重要なのだが、海外の魅力はフォーラムにあると考えている。これは、半分実名じみた、匿名性の低いものだったのが幸いなのだろう。

フォーラムのメリット

フォーラムは実装に手間がかかる点がある。しかし、ユーザの名前はすべて一意のものになり、メールアドレスがそれに対応している。日本でいう所のはてなに似た状況になり、すべての人は、自分の持つアカウントというバックグラウンドを危険に晒すことの無いように、最低限のマナーをもって接する。失いたくないものありきのコミュニティでは、突然沸いてきたものに対しては、そもそもの発言力を軽く見る。フォーラムとは、この世界にどれだけ長く生きているかでそれなりの価値が認められる、積み上げていくサービスである。

以上の特性により、製作者はフォーラムの中では、単に貶めるような発言から守られることになり、多くの人がゲームがより善くなるように支援してくれる環境が、野ざらしよりも整うこととなる。ただし、フォーラムが活性しているかどうかは、ユーザにすぐ見て取れるので、意欲のない開発者はユーザにも伝わり、淘汰される可能性もあるのだが。

特徴ある開発者のスタンス

例に挙げると適切なのは、NeverWinterNightsやTESシリーズ(Morrowind、Oblivion)のフォーラムなどで見られる一つの事象だ。

本来、MODはゲームの内部を覗き込み、作り変える行為に該当し、利用規約違反となる。しかしどうやら海外には、それを見て見ぬ振りをする風潮があるようだ。むしろその権利を認めている作品もある。こうして開発者が歩み寄るゲームには、開発者イチオシとMODに印が押された統合パックを、開発者側から紹介することもある。こんな風にオープンな場合は遊び倒したいユーザにとっては最高の環境だ。

これはなかなか面白い試みで、そして長いこと続いている。この開発者のバックがあることは、すなわちその世界観に即して、さらにゲームを深くしてくれるというお墨付きを与えられていることである。だから海外のゲームでは公式パッチは勿論のこと、その拡張も製品の一部として遊ばれる。

これはMOD製作の動きをより活発にさせるものもある。一番重要なのは開発者のあり方なのだが、フォーラムとMOD製作と三つ巴になることで、最初予想すらできないものが作られることもあるのだ。

二つを経て見えるもの

最初のCWが僕は国内で最も製作者の輪を大きくすることができた事例だと考えている。そして、CWに足りなかったと思うものは、後段のフォーラムと開発者のあり方である。

足りなかったというより、平凡でしかなかった。また、製作者は開発中止と無干渉を早い時期に決めている。上のあり方で考えるのであれば、もう少しゲームの全貌を強く出してもらいたかった。

それがCWのひとつの失敗につながる。開発者の指標が、ルールブック以上でなかったために、ゲームバランスの崩壊を誘うシナリオが出てきたことである。日本人のゲーマーは特に、キャラクターが強くなるための手段を簡単に選ぶ傾向がある。その結果つまらなくなることもあり、ただそれはユーザが望んだことでは無いときが多い。CWは、そういった(残念な言い方だが)善良にプレイするものにとっては、悪意に等しいゲームを判別する術が少なかったことだろう。これは、3つの定義の『1.検索の手間隙が膨大である』に引っかかることとなる。

ここまでで現状を打破するための僕の導出は終わった。違和感を感じた人は、きっと僕とは異なる答えを見つけられるだろうし、是非その考えを知りたい。反対に同意できた人は、是非これにのっとって何かを成して教えていただきたい。それは書き手として非常に嬉しいことだ。次の最終章では、僕のこれからの提案を書いていこう。

最終章:いくつかの提案

大分僕の考えも書いたので、さらに何かを提案することは特にないのだが、それでも最終章なので、それなりにまとめてから筆を置きたい。

ゲームを作ろう

まずは魅力あるエディタとシナリオと設定が必要だ。実際にこれだけを作ったとしても、それは十分すぎるくらいにゲームとなるだろう。ゲームを作ることが難しくて挫折するコンシューマのRPGツクール等もそうであり、無茶を言ってはいないと思える。ただしこれは、厳密な見方ではゲームではないとされている。SimsやSimCityは、メタゲームないしはシュミレーションでしかないともいわれている。今回はゲームとしてみなすが、こういった考えもあることを覚えておいてもらいたい。

エディタは、何でもできるプログラミング言語であるよりは、もっと簡単に作る必要がある。Hot Soupでも難しすぎる。言語使用を知らなくても、直感的に作れるUIが理想だろう。

付属するシナリオは、さまざまなタイプがあると良い。具体的には、短編、長編、サイドストーリなどの、物語に関するものなど、その世界のあり方を連想させるものなどだ。そしてその背景をより強固にするために、ゲームブックまでとはいわないが、設定的なものもあるといい。そして、このシナリオこそが、あなたの作るゲームなわけだから、下手をこかないように、十分に吟味して、ブランドとなりえる完成度を目指そう。

付属するスクリプトや音楽、画像はライセンスフリーをうたい、流用可、もしくは一次流用可が望ましい。

以上の点によりゲームができたはずだ。僕の例では、一貫するキャラクターなどがある前提なので、STGなどは同じ考えでは向かないだろう。考え方をチューンアップして、たとえばある敵キャラクターの動作に関するプログラムを配布するなど、若干の技術があるもののみに対象を絞ったほうが作りやすいかもしれない。

フォーラムを作ろう

ゲームができたところで、次はコミュニティの土壌作りである。(フォーラムに関連するものでは)日本ではWikiぐらいしか複数人の書き込みに耐えるサービスを見たことが無い。しかし最近は好きなものを絞ったSNSが多くなってきたので、違和感無く受け入れられる場合もあるだろうか。

海外とまったく同じではだめだろう。僕は完全なメールアカウント登録制にならない限りは、表に出す情報は、2chでのトリップに相当するものだけで十分であると考えている。重要なのは、一見すると悪意としか考えられない発言を、悪意なのかそれとも真摯な批判なのかを考えるに十分な情報である。

あなたがへまをするような作者でないのなら、フォーラムにたびたび発言することも必要だろう。人望ある製作者は、それだけで遊びたくなる動機となる。現にMMOやWebサービスが成功するかどうかは、その後のアフターケアや開発者ブログから想像がついた経験は無いだろうか。

共感した人たちができること

まずは自分のゲームを作ろう。好きなように作って、公開すれば、面白ければ何らかの反応が返ってくるだろう。気に入れば、さらにゲームを作り続けてもらいたい。そうして、余力ができてきたらたまには開発者の気に入りそうなゲームを作ってもらいたい。運がよければ統合パックに参加できるかもしれない。

絵の描けるもの、音の作れるものは素材を製作してくれると、さらに開発者たちの自由度は高くなる。CWは、後半の作品は最初のファミコンベースのつくりに比べると、劇のように魅せられる素材が多かった。初期の作品と後期の作品が違った仕上がりになるのは、 またひとつの歴史を最初から体感できることになり、それも楽しいのではないだろうか。

そして最後に開発者ができること

ここは先ほどの開発者認定の統合パックのお墨付きのほかに、それを踏まえてもうひとつ重要なことがある。この段階までに育ったコミュニティに満足するのもいいが、計画市場的なものを目指してもいいかもしれない。

開発者が統合パックを認めるということは、同時に開発者が何かしらの基準に応じて、シナリオなどを振り分けるということである。だから過剰に行うと、開発者が自分の王国を作ろうとしていると感じてしまう場合もあることを留意しよう。重要なのは、選ばれなかった作品がマイナスではなく、選ばれた作品が特にプラス、または開発者の意図にかなっている指標のようなものであることである。

それもあり、先ほどの海外のMODでは、開発者選別の統合パック以外に、ユーザ選別の人気ある統合パックもある。CWでたとえるならば、開発者の意図しないパックを当ててみると、それはスペースオペラであってもいいわけだし、開発者はそこに目くじらを立ててはいけない。

この最後のステージに来たのであれば、スペースオペラが開発の歴史を塗り替えてもいいだろう。製作者はついに幕引きとなる。後は一ユーザとして享受する側に回るのも素敵かもしれない。

あとがき

今回のフリーゲーム論、いかがだったでしょうか。残念なことに現状、これを一から作り上げることはただの理想論です。ただしこれは、前例のある理想論です。さらには大成はしなくとも、小規模に味のあるまとまりを見せているものはいくつもあります。

ノベルゲームでも、実際にリレーノベルゲームを作ってみると面白いかもしれません。最も、こういった多くの人数が絡む創作物は、寛容な人以外が参加した瞬間にあっという間に破綻するケースが多々ですが。

僕自身、提案をただの理想論では終わらせるつもりはありません。可能であれば15年以内に取り組めるように努力したいです。

まったく関係ないですが、ただ彷徨うだけのゲームがしたいなぁ。『ゆめにっき』も悪くないのですが、PSの『moon.』とか、フリーゲームの『soup』とか、そういったとめどないものがいいです。いつか作りたいな。

今回の記事は時間がそれほどかかりませんでした。それも一例に頼りながら文章を完成させた気があるからですが、MODのように、ソースコードの解析とかを認める流れがあれば、少しずつ変わってくるのかな、とも思っています。今回の内容で、少しでも肥やしになるところがあれば幸いです。それでは今回はこれで筆をおきます。ありがとうございました。

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2008年6月28日 19:59に投稿されたエントリーのページです。

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