最近ご執心の脳シリーズ3回目。本書は前回のリタ・カーターの本よりも読み応えがあります。。
目次
- 第一章意識は穴だらけ
- 第二章やっかいな問題
- 第三章ではなぜ意識を持っているのか
- 第四章意識はこうして作られる
- 第五章脳と意識
- 第六章意識する体
- 第七章私は私?
- 第八章ばらばらになった意識
- 第九章意識の宇宙?
本書の全体像
過去に書評した「脳と心の地形図 ビジュアル版」から4年たって発行された本書。内容は、意識はなんなのか、どのように作られているとされているか、意外な脳の働き等。全335ページ。リタ・カーターが著者。1page1分としても5時間以上かかります。
脳、脳とよく話題にのぼる今日、そもそも脳の働きとはいったい何なのでしょうか。実は観測するに当たって、常に主観を交えているものであります。そして主観を交えて話すとき、そこに「意識」を絶えず意識することとなります。果たしてこの意識、精神とはなんなのでしょうか。
本書では、この意識を、生存に当たって必要であった機能─敵から身を守る、食料を見つける─などをより高度化させた結果として考えていきます。なるほど、読み進めるとこれはこれで納得がいきます。
「脳と心の地形図」とは内容は大きく異なり、関連した内容は2割程度もありません。引用した事例が同じなくらいでしょうか。また、本書には悩みを解決させてくれるほど、結論のある話題を持っていません。読み終わったときは、確かにまえがきで書かれているとおり、わからないことだらけになります。
それでは、本書の魅力と所感などを2項目ほど。
クオリアって必要なの?
本書の広い範囲で書かれているので引用はしません。この問題なんですが、よく科学に傾倒している人にはこれ(クオリア)知っていて言っているの?という問いを聞きます。それではクオリアって何?その色を見たときに、たとえばそれが赤なら、赤であると認識する主観のこと、と記憶しています。ここで大事なのは主観だから個人個人に差があるということですね。
で、こんな問題に僕がどうこういったところで、馬鹿を丸出しにするだけなのですが、反対にネットで先ほどのように指摘して回る人も同じでないでしょうか。専門家でもなければ、先に証明ができないことを知っているが故に、さも全てを理解した気でいるような気がしますけどね。
本書を読んで感じたことは、やはりクオリアは生活では一切感じる機会がないことです。しかし、脳の機能的な問題から意識を考えたとき、人間関係でのほころびの一因となりえることは事実です。ですから現状、哲学のように意識をクオリアとともに考えるよりも、脳の機能的な問題が、生活にどのように影響を及ぼすかとともに意識を考えたほうがいいのでは無いでしょうか。
学術的なところまでいくと、未解決を解決とするためには、反論を許さないように完全なところまで持っていく必要があります。しかし、以前書いたように、事実に目を向けると、「確かに関係がある」いくつもの事象があります。例えば、赤を感じるということは、脳が必要と判断したからです。色をその名前とともに判断するための、カラースペースと呼ばれるこの色地図は、世界各地によって異なっています。それは、生きていくために必要か必要でないか、に影響されているようです。
それは言い換えれば、感じ方に些細な変化があろうとも、色を感じる必要があったためです。一般の紫に見えていたとしても、赤として感じる必要のある機能(夕日や血)と同様に働きます。結局のところ、主観がどう感じていても、言語で表すものに差がないのであれば、日常を過ごすのには問題はないものです。
主観の変化が他者から見て取れる場合
脳に何らかの変化があったとき、主観の変化が他者から見て取れることがあります。むしろ生きていく上で知る必要があることはこちらのほうです。
僕はごく身近な人が、脳手術で性格が変わったことに直面した経験があります。このとき、生きていくうえではやはり脳がその人である事実を認識しました。
その人は脳を腫瘍とともにいくらか摘出しました。それを医者は影響は少ないところだから問題はないだろうといっていました。確かに大手術だった割に、ほとんど後遺症がありません。しかし、身近であるために、些細な変化を知ることが容易でした。
当人はその変化がある最中は気がつきません。例えば以前より激情に流されやすくなったとしてもそれはやはり抑えることができず、後に残すのは後悔だけでした。
この本では、その意識が脳の損傷などで変化したときのいくつもの事例を挙げています。その人と今までの本と兼ねあった結果は次のような所感でした。
意識は意識的に変えることができます。意識とは多くの時間を作る無意識の間にあるもので、言い換えれば自己の存在する瞬間であり、その意識が働いているときには内省が許されます。これは僕が僕たる所以です。ただし、脳に傷を負うなどで意識に影響を及ぼしたとき、それは器質的に僕が失われたときに思えます。しかしそれでいて、僕は僕で生き続けます。
考えるに、子供のときの感覚ように、僕が生きているのはいま一瞬だけなのでしょう。ただ、脳は時間という概念を持ち、前後をつなぎ合わせていきます。ですから、脳がある限り次の瞬間にも僕はその性質を保ち続けますし、脳が怪我をしたときはその性質がすこし変わってしまうだけで、僕なんでしょうね。むしろ僕は今日も健全に自分が同じでいることに感謝でき、失われたときこそ当たり前のように思えます。あなたが生まれた奇跡というものは、行き続けている間も持続されているのではないでしょうか。
アルツハイマーにかかったとき、その脳死とも取れるプロセスが生きている間に多く行われていきます。変わっていくさまを悲しむのは客観であって、主観からするとゆっくりと意識が薄くなっていく、まさに若返りととれるような気がします。僕はそれが幸せなように思えます。
本書が合いそうな人
「脳と心の地形図」を読んだ上で、高校生以上であれば面白い事象から脳の機能を考えることは容易でしょう。しかし、意識に関連した章を理解することは、本書だけでは難しいように思えます。
小説なんかの題材に使えるのではないでしょうか。僕が気になったところは10以上はありました。
ゲームに使えそうなネタ等
いい加減僕のサイトを同人サイトに戻しましょう。論評とか書評ばっかりでそれこそ僕が失われています。と、いうことで、今度から読書しつつも、ゲームのネタを探すことにしました。
意識のスケールについての項目がいくつかありました。これは何かというと、今目をつぶって先ほどの情景を思い出してください。このとき、どこかに焦点をあわせるととたんにぼやける記憶のあいまいさのことです。
このテクニックを使って、拡大縮小すると別のものになるのを恣意的に使えば、独特のゲームができそうです。とはいっても小さいところから大きくなるゲームは、小さいときことを忘れがちなので、アクションであればどんどん小さくなっていき、最初の何気ない敵やイベントが、大きな威力を持って襲い掛かってくるなどはどうでしょうか。
意識は固体以外にも宿りえるかも知れない観点から。それを使って、蜂とかを意識したゲームはできないものでしょうか。RTSのように、機能別に生産されるユニットを使うゲームは、既にいくつかありますが、これはほかのゲームでも流用できるように思えます。
今回は、これくらいで筆をおくことにします。
