こんな更新頻度ですが、なりたいなならなくちゃぜったいなってやるアルファブロガー。
そう思ったのも、最近僕のサイトで少し面白い動向が見られることをうけ、ほうなるほどそういうことか、と頭を捻り、”ユニーク”かつ”レア”な記事がウケると感じたからですね。これについては1月のアクセス解析で追って報告する予定。
閑話休題。今回はフリーゲームについて、どのようなものがこのwebにおいてwebのみでの存在を許す革新的な作品にすることが出来るのか、を『買う』と『タダ』という金銭の絡んだ観点から考察しようと思う。フリーゲームは多くの要素、作り手や遊び手も含むものであり、たかがblog一回の記事で全体を説明できる持論を展開できないので、徐々にこの謎を紐解いていきたい。
1章:買うということ
さて、買うとはいうまでもなく、金銭を使うわけであり、他の経済活動を抑制してまでそれに投資することである。それでは、お金を払うときに人は何を考えるのだろうか。
大抵の人はゲームに多くの金銭を割きたくはないだろう。あくまでもゲームは暇つぶしであり、社会的な生活を送るためにはゲーム以外の話題も必要だ。そのために、そのゲームを買うということは、休日などの空いた時間を潰すこと、リフレッシュする題材を増やす目的のためであると考えている。しかし対人戦のあるゲームでは、他人に勝つためという目標が加わるだろうし、STGではハイスコアを目指すという目標が加わり、要はジャンルによって多少の幅を持つことはありえることも考慮しなければいけない。が、これらはそのゲームに対して、現状他のゲームよりは良い物であると個人が願い、そのシステムを遊び倒そうとしているが故の行動なので、既にこの段階に至っているということは、そのゲームは端的に言えば成功しているといえる。
ということは、ゲームが飽きるまでの活動を分解すると、最初に心を動かすために必要なものは、『(シリーズであったり、革新性であったりすることからの)この作品を買えば、満足できそう』という魅力である。そして当然のごとく、ユーザはその払った金銭と等価もしくはそれ以上の満足感を求める。
2章:買ったが不満だ
よし、買うことで期待する効果は以上のものだ、と僕は考えるが、反対に『買ったのにクソだ!』と思わせるということはどういうことだろうか。
昔僕は『ヨッシーストーリー』というNintendo64のソフトをクリスマスプレゼントに買ってもらった。年末商戦もあり、高速で売り切れ、第二期で購入したことを覚えている。朝並んで手にしたときは、感動で小学生でありながらも涙を流していたことは、その後感じる不満とあまりにもコントラストが強すぎた。
まずプレイして4時間でエンディングを迎えた。セーブが出来ない。ヨッシーアイランドはとても長いストーリーであったのに、あまりにも変更が多すぎ、想像していたものとまったく異なっていたのだ(後のマリオストーリーもそうであった。腹いせに連続ジャンプ111コンボを達成した)。この想像していた出来とは悪い方向に異なった、ということはクソである(悪い方向なんだから)。悪い、とは言ったが小学生のあのころからすると、何本もゲームを買ってもらえる身分ではなかったので、やはり長持ちする、ということが至上命題なのである。それを満たすことの出来なかったこの作品を、僕の誕生日まで遊び倒す羽目になったことは言うまでもない。
さて不満に思った次の瞬間には、それを実行できるかどうかはともかく、『二度と買わねーぞ!』と思うのは間違いない。少なくとも、買い物を失敗した自分に対する戒めの言葉か、作り手に対する不満をぶちまけていること請け合いである。幸運にも『二度と買わねーぞ!』は上の二項を満たしているようだ(笑。
この心の動きが起こるということは、元は遊びを求めて(=快楽)ゲームを購入したわけであるが、ことが済んだ後には、『金銭』と『時間』に対する『実害』を被ってしまっているのである。こうなってしまうと本末転倒だ。流石に、無駄な
買い物にご用心、と気を利かせてくれたとプラスには考えられないだろう。とにかく、こうなってしまうとケアできる状態とは言えない。
3章:買うことの結論
回りくどくなったが結論を出そう。ゲームを購入するということは、金銭と時間を失って(その全貌が何であるかもわからないのにもかかわらず)漠然と期待するエンディングを迎えることである。もしくは満足して飽きることである。それが出来た作品はシリーズ物になりうる。そしてユーザーは冒険することをやめ、漠然とユーザが期待している通りのエンディングをむかえたシリーズを今度もそうであるだろうと期待し、購入することとなる。これが遊びを『購入』をした結果のユーザーの多くの姿である。
次に売り手側の結論だ。資本主義の観点に立ち、利潤を求めるために売り手がすることは、以上のユーザーの期待を満たし、確実に売り上げを維持することである。反対に不満が多い作品は、よっぽどのリテイク、リメイクが行われない限り、関連した作品は二度と出てくることがない。極端に言い換えれば、売り手側は商売であり、その作品がユーザーに喜ばれれば、信念も何もあったもんじゃない訳だ。
上の二つの視点を統合し、さらに得られる結論は、ユーザは確実な娯楽を求め、デベロッパはその最大公約数を満たし、より多くの売り上げを求める。これがゲームを買うことの利害関係である。
4章:タダだということ
以上の買うとことは、もしかするといまさら語る必要はないと考えている方もいるだろう。僕自身先ほどの展開は資本主義経済にのっとって考えたつもりであるし、これで間違いはないと思っている(…が、知識が足りないために見落としがある可能性もある。出来れば指摘してください)。
いさあいよいよ後半だ。ここからが今回の中核であり、僕の仮説の展開である。
上の『買うということ』からは当たり前のことがわかるが、それをタダで展開すると、とても面白いことになる。ユーザ、デベロッパの前提条件が成り立たないからだ。
フリーゲーム(以下フリー)はどのような判断、経路でユーザが入手し、それで遊ぶのだろうか。フリーの場合は、PCでゲームをするという、比較的マニアックな行動であり、既に一般市場と異なるユーザが作品を選別することとなる。その際に特に僕が異なる点と考えているのは、ユーザはフリーの場合はより能動的にゲームを探すことである。フリーは、作者(フリーの場合はスタッフは少数なので作者が妥当であろう)が空いている時間に金銭的な対価は求めずにゲームを作ることがほとんどである。そのために、同じ作者の提供する同品質の作品は多くの場合期待できない。従って同じ系統のものを遊びたいとしても、ユーザは自分でレビューを読むなりスクリーンショットを見るなりで判断しなければならない。そうやってゲームを手に取るわけである。
この段階では、買う場合と大して差は無く、目的もほぼ同じである。
5章:落とした作品が不満だ
このときに勿論つまらないこともある。多くのユーザはクレームを入れるだろうか。音質が悪い、絵が下手だ…と言ったところで改善は望めない。作者も時間は無いし、ユーザ自身も無料のそれにそこまで憤慨する価値も無い。ただつまらなかったと心の片隅で感じ、PCから消すだけだ。
何故そうなのか。単純に『金銭』は問題から抜け、『時間』だけの損失となるからである。それも金銭を伴わないために、途中でやめるという時間を棒に振る選択も比較的容易に行うことも出来る。片方が意識から抜けることにより、問題は絡まることなく、単純に解決が出来るようになる。
時間も等しく重要じゃないか、といわれる方もいるかもいれない。確かに重要であるが、多くの人間にとって時間
は重要であれども価値がわからないものであるように思える(これについてはより詳しい文献などが多くあるだろう)。金銭は同じ活動を全ての人に可能とさせるが、時間はいつも要らないときに余分にあり、必要なときに枯渇するものである。だから、人は時間がさして重要でないときにはその価値について考えることも無いだろうし、そうであるからこそゲームを探しているのである(テスト前の逃避については除く)。
さて、ここからがユーザの心理として異なる動きが生まれてくる。不満なら消せばよい。面白いと思うのなら続ければよい。ある種本編が体験版のようなものだ。本当にマッチしたものは、知らず知らずの内に引き込まれ、最後まで遊びきるのだろう。不満について考えているときに、対極のケースを語るのは可笑しいがフリーとはそういった傾向も強くある。
以上が僕を含めたユーザの心の動きである。投資を時間しかしていないために、判断を緩めることが出来る。ということが最大の特徴である。
6章:それでは作者側はどうなってくる?
以上を踏まえると、売ることが目的とは異なり、フリーはユーザが許容できる幅をもたらし、結果として作者の作品が受け入れられる幅も生まれていることになる。
幅があることは解った。ただ作者側もデベロッパとは異なる視点を持っていることも忘れてはならない。まず、作者は作品の目的を、自己表現、技術向上、顕示欲、享楽、あるいはメモと違うものを意識して作っている。あまりにも人それぞれなのである。だから勿論、市場に出すことを目的にすると利潤のために販売本数増加以外の目標がないがしろにされてしまいがちだが、その例と同じく多くの人から高評価をいただくことは、作者にとって良いことであっても至上命題とはなりえないのである。これについては共感を得られない場合がありうる。特に創作をしない方ならばそう感じない人がいても可笑しくはない。ただあえて難しい言い回しで表現させてもらうが、それはユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学と近似しているものといえる。資本主義の中では想像しがたいが、事実として他の価値基準があるということである。
やや難しい流れになってしまったが、上の段落を要約すると、別に人気である必要はない、ということだ。最初からフリーとして遊んでもらうことよりも、作者の作りたいものを作った成果物がフリーとして公開されているケースの方がほとんどであることは自明だろう。少なくとも多くの作風から、もしくは作者たちが作品を作り上げるのと同じ姿勢で多くに触れ込みまわっているわけでもないところから、そして僕自身一作者として僕はそうであると結論付けている。
同時に作者がそれを目的にしていることはユーザも肌で感じ取っていると思われる。もしくはその作者の好みに凸となった作品に触れることにより、そのような関係を作り出しているかもしれない。
7章:そうすると関係はどうなるのか
もしかすると話の内容を忘れられている方もいるかもしれないので、もう一度さらってみよう。買うことは、資本主義での枠の中で、ユーザがなるべく安全に楽しめるものを、購入し時間を費やす。デベロッパはそのユーザをなるべく多く確保できるように製作する必要がある。タダの場合は、ユーザから金銭の足かせが外れるために、比較的自由に楽しいゲームを探索できる。そして嗜好が合わなくても寛大に出来る。同時にフリーは作者側も主役であり、ユーザの意見よりも個人の嗜好を優先しても問題が起きにくい。
そうなると関係はどうなるのか。まず、買う場合と異なり、作者とユーザの規模が小さくなる。嗜好を前面に押し出したものほど、ユーザは絞られる傾向にあるからだ。ただし、絞れば絞るほど該当するユーザの希望は高いレベルで一致することとなり、結果としてその枠の中では稀代の作品としてもてはやされることとなる。大げさに言うが普遍的で優良な作品であれば大衆のヒーロー、英雄となりえるだろうが、稀代でなければ、狂信とも揶揄できるほど宗教的な信者は生まれないだろう。
話が若干オカルトになってしまった。ただ上のような考えもあるということで軽く流してもらいたい。
以上のことから、買うとタダの違いはおおよそ伝わったのではないかと思える。そして最後の章で、今のフリーゲーム界に足りないと僕が感じることへの、ひとつの解決策を提示したい。
最終章:フリーだからこそ許されること
皆さんは今までのフリーライフで、おまけ的な要素で登場キャラクタたちが作中のあり方とは異なって語り合っているものに出会ったことはあるだろうか。
あれはある意味で作者の砕けた地の部分であるともとれるし、キャラクタの一面を深めるための手法であったりすることもある。ただ、僕が言いたいのは『作中とは違った』と感じたかどうかである。
例えば商用でこれをしたとしよう。FF7のクラウドが超絶DQNで「おちんちんびろーん!!」なんていっていたらクレームものである。株価も傾きかねない。それは僕の展開によると、漠然と期待していたエンディング、から大いにそれるからだ。従って商用では、シナリオの脚色にもならない、ラスボスが塵に等しいほど強い敵がいる隠しステージがやっと、ともとれる。これならば『ラスボスの価値ないじゃん…』で済み、またそういったゲームが多いので無意識のうちに許容できるのだ。
ただしフリーではその前提は崩れる。元来作者は何をやってもいいという関係がユーザと成り立っているため、ユーザが実質的な被害を被らない限りは問題とされない。
従って、作者は自身のゲームについて、全体の権利を有し、必要であれば全体の印象を完膚なきまでに壊してもいいのだ!おそらくユーザは不快に思うだろう。この点については後日フリーゲーム論としてさらに設ける必要があるのだが、実はそれも既に不快に思うだけの要因はそろっているのに慣れてしまっているだけ、だと僕は考えている。
話を戻そう。要は、商用では出来ないことをしても(ユーザは逃げるだろうが)許される、ということだ。ノベルゲームにたとえてみよう。『マブラブ』というタイトルが商用で18禁のサウンドノベルとして出ている。これは珍しく商用で世界観をぶち壊した類のゲームだ。最初は学園物かと思いきや、パラレルワールドで宇宙人と戦っちゃうお話である。珍しく商用で成功したが、この類を強烈にしてみる試みも、作者の強い希望があれば尊いものとして取り組むことが出来る。『ひぐらしのなく頃に』は、何も知らない人がプレイした場合は、ほのぼの学校物かと思いきや、人間不信に陥るストーリであるのだ。その驚きは類を見ないものだろう。少し生臭い話になるが、それにならって、純愛ラブストーリーかと思えるシナリオで突然不幸や、性犯罪者に巻き込まれたら、そのストーリーラインはトラウマそのものである。しかしながら、同時に見たこともないストーリーがそこに展開されていくこととなり、その生臭さを乗り越えたユーザは、以後想像もつかないストーリーを歩むことになるのである。これはミステリーのように難しいトリックを考える必要もなく、奇抜さオンリーで立ち向かっていくとも考えられるが、現在のところそういったものはごくごく少数しか見ていない。しかし強烈なインパクトを持つことは事実である。
ユーザーは逃げるかもしれない。少数の方しかプレイしないかもしれない。しかし、本当に(驚愕の意味で)あっと言わせるなら有効な手法だと僕は思う。
本当に長い文章だったが最後の最後に。僕が伝えたかったのは、フリーの土俵にあるが故の懐の深さを知ってもらいたいことである。ユーザは想像以上に寛大なもの、もしくは気にも留めないものであると僕には思えるのだ。精神性だけで評価される場合もある。それも作者が金銭というひとつの欲望を断ち切って、表現という欲望に身をおいたから出来ることである。行き詰っている方はもう一度その可能性を見直して、背筋の震える作品の可能性を模索してみてはいかがだろうか。
あとがき
おはようございます。2時間もカタカタと、今まで考えていたことを書き下ろしてみました。これはフリーゲームの包括する1つの面に過ぎませんが、それでもとてもとても重要だと常々考えております。
今回はやや蛇足な部分もあるかもしれませんが、最近どうにも事細かに書かなければ気がすまない性質になってきています。それも工学のレポートで文学的(あまり育ってませんでしたが)な表現を切り捨て、順次説明していかなければいけないような強迫観念に駆られるようになってきたところで、哲学に関する本なんて読み出した日には、さまざまな可能性をつぶして書かなければいけないような気がするのです。上記でもつぶし損ねたところがありますが、それも気になって仕方がないです。
文章、ただいま14k。原稿用紙15枚分ですね。こんなにも書いて、僕は何を訴えたいかいまいち僕自身理解していないですが、書き留めるという作業はなにか重要なことだと思っています。これだけの文章を読まれる方はいないかもしれませんが、もし読まれたのであれば、そして疑問や反感があれば是非コメントを残していってください。このつたない思考を出来る限り研ぎ澄ましていきたいと思っている次第です。
それでは、フリーゲーム論、一回目『買うとタダの違いとは』を読まれた方はお疲れ様でした。僕もお疲れです。読まれた方にとっても無駄にならないことを祈っています。